中央本線旧線跡 高蔵寺〜多治見間の廃トンネルたち
(愛知県春日井市、岐阜県多治見市)


「名古屋のチベット」と呼ばれていた名古屋市守山区。
実際「チベット」だったのは守山区の東部、吉根(きっこ)、志段味(しだみ)地区だが、
近年この自然豊かな里山集落も、愛知万博のテーマの根幹を成していた「里山の保全」を無視するかのように
区画整理→ニュータウン建設の餌食となった。
などと数年前は口吻激しく批判していた私だが、いざ万博行ってそれなりに楽しんだり
区画整理地内にオープンしたジャ○コを頻繁に利用したりと、なんか自己嫌悪な今日この頃です。

・・・そんな話じゃなくて、えっと、その守山区竜泉寺、吉根、志段味地区を抜け、岐阜県多治見市に至る道路がある。
現在の正式名称は「主要地方道名古屋多治見線(県道15号)」。
名古屋と多治見、恵那といった岐阜県東濃地域を結ぶ道としては、国道19号に次いで重要な路線だ。
この県道15号だが、守山区を越えてすぐ、瀬戸市鹿乗町から多治見市までの区間は「愛岐道路」の名称で呼ばれている。
この名称は昭和32年から昭和62年まで同区間が有料道路だった名残である。

両側を急峻な山に挟まれた庄内川に沿って走る愛岐道路。
この道を普段利用されている方は、対岸の山肌にいくつもの朽ちたトンネルが口を開けていることに
気づかれているかも知れない。
これは明治33年にから昭和41年まで使用された、中央本線の跡である。
現在この区間の中央本線は、2つの駅の前後以外はほとんどが新たに造られたトンネルで通過している。


下は大正6年(1911年)の旧中央線高蔵寺〜多治見間が描かれた地図です。
※画面上にマウスを合わせると、現在の中央線ルートと愛岐道路を表示します。見にくいのはご容赦。

東京と名古屋を結ぶ中央本線だが、名古屋〜多治見間は明治29年4月に着工された。
路線決定までに様々な紆余曲折があったのですが、その辺りの説明は省きます。
高蔵寺〜多治見間の工事着工から開通までのみに焦点を絞り、
と言うか愛岐道路から見えるあのかっちょいいトンネルさんたちにまつわる事柄に絞って記します。

上の地図から分かるように、春日井市玉野町から多治見市までの約12キロは庄内川(土岐川)の両側に山々が迫り、
平地はほとんど見当たらない。
この工区(七、八、九工区)は、断崖絶壁に14ものトンネルを穿つ難工事となった。

「・・・庄内川の左岸に沿ふて断崖絶壁の峻嶺に入り、或は山腹を断ち、或は懸崖を渉り十四個の隧道を穿ち・・・」
(「中央線鉄道建設概要(明44)」より引用、一部筆者改変)

明治29年11月、特に難工事が予想された5、6、7、14の各号の工事が開始された。
(※トンネルは高蔵寺側から順に1号、2号・・・14号まで)

愛知県側(7号トンネル辺りまで?)の工事資材は、玉野から軽便鉄道を敷いて運搬。
一方、多治見側の14号トンネル(池田トンネル)の資材は、
名古屋から下街道(現在の旧国道19号線にあたる)から内津峠を経て、
池田村(現在の多治見市池田町、市民病院付近)まで荷馬車をもって運ばれた。
また、多治見側からも軽便線が敷かれ、資材運搬を円滑にした。
※現在の愛岐道路に相当する「玉野街道」は鉄道建設の数年前、地元有志によって整備された
(古虎渓に架かる天ヶ橋など)が、脆弱な地質のため崩落が繰り返し起こり、
資材運搬路としての利用は困難だった。

土岐川沿いに発破用の火薬貯蔵庫が建てられたという記述が、廿原(つづはら)地区の資料にある。
火薬庫は、明治30年に多治見市廿原(つづはら)の12号トンネルから
1200メートルほど川を上ったところに造られたとある。
※14号と13号の中間付近?

トンネルに使用される煉瓦は多治見や高蔵寺、水野(瀬戸市)などで焼成されたらしい。
「多治見市史」によると、妻木街道(現在の県道387号線)に煉瓦工場が造られ、2つの窯で焼かれた。
街道筋の集荷場からトロッコで土岐川まで、土岐川から舟で各現場まで運んだとの記述がある。
※多治見の煉瓦工場は、西浦焼という陶磁器で知られる西浦氏により建てられた
幕末から明治期にかけて名を轟かせた西浦焼は、現在では継承者がいないため「幻の陶磁器」とも呼ばれている


レールや橋桁などは、新橋(東京)や神戸から熱田駅(名古屋市熱田区)に一旦持ち込まれた。
そして「熱田古渡間建築支線を経て千種停車場まで軌道を敷設し、「トロリー」を使用せり」
※古渡とは中区古渡町?
また、明治32年には建設用列車(機関車2両、土運車49両)の運行が始まり、工事のピッチをあげることとなった。

困難をきわめたトンネル工事は、多くの犠牲者を伴った。
5号トンネル(隠山第一トンネル)では、
「・・・東坑門に於ける山嶽の中段より突出せる巨岩、俄然崩落し、坑夫六名を埋没するの惨状を呈せり」

県境に位置する6号トンネル(隠山第二トンネル)では、
「西坑門外の切取延長三鎮あまり、大雨のため崩壊せし・・・」
(※鎮=町?1町は109mだから300mほどが崩壊の意? 他誌では60mが崩落との記述もあるが・・・?)

7号トンネル(諏訪第一トンネル)については、
「坑内湧水多量支保排水共に困難を極め・・・」
(いずれも「中央線鉄道建設概要」より引用)

他にも数多くの落盤事故、土砂災害が発生し、坑夫ら20名以上が命を落とした。
工事殉職者の慰霊碑が、定光寺駅近くの東海自然歩道入口脇に建っている。

旧中央線の名古屋〜多治見間は、明治33年7月25日、運行を開始した。
開通当初、この区間は「高蔵寺駅」(春日井市)、「勝川駅」(春日井市)、千種駅(名古屋市千種区)の3駅しか無く、
名古屋〜多治見間の所要時間は1時間35分。本数は1日4本(4往復)だった。
中央線が全線開通したのは、11年後の明治44年5月1日のことである。

左の写真は「ふるさとの想い出 写真集多治見」(国書刊行会)
より転載したものである。
春日井方面から来た汽車が14号トンネルに入るところと思われる。
(本では多治見から・・・となっているが間違いかな?)

「・・・トンネルの中では窓を閉めて煤煙を防がねば
ならなかったが、名古屋の学校へ通学している生徒などは、
「僕は十四もトンネルをくぐって来るんだぞ。」と言って
お国自慢をしたと言うことだ。」
(「ふるさとの想い出 写真集多治見」より引用)

昭和32年の愛岐道路開通以前、古虎渓、定光寺など中央線の沿線は、名古屋から手軽に行ける観光地として、
たいそう賑わっていたようだ。今では廃墟となった旅館やドライブインが多数晒されており、
古虎渓の温泉施設の廃墟などは有名な心霊スポットに仕立てられている始末である。

まだこの辺りが観光名所として体をなしていたころの記述を、当時の中央線関連の資料から拾ってみた。
 
「高蔵寺多治見間は玉野川に沿ひ、汽車は十四の隧道を潜る。嘱目一の如くにして然かも一ならず。
蓋し山水の美は能く旅情を慰するに充分なり」

「【古虎渓】 ・・・土岐川の碧潭(へきたん)に臨み奇石聳立するの所、渓水潺湲(せんかん)として
夏時河蛙の妙音を弄するあり・・・付近に天の橋あり。一段の風致を添ゆ。」
※天の橋は「天ヶ橋」(古虎渓駅の100mほど北にある)のこと
(いずれも昭和5年ごろの中央線沿線案内の類の本より引用、タイトル名失念)

明治期〜現在までの愛岐道路(玉野街道)周辺の変化については後ほど調査&公開を考えております。

なお、定光寺駅は大正13年1月1日開設、
古虎渓駅は昭和27年4月1日に開設されました。

そして昭和41年3月、中央線高蔵寺駅〜多治見駅間が電化工事を終え複線開通すると同時に、
旧線は廃線となり現在に至っています。

号数 正式名称 延長 現在の状況
1号トンネル 玉野(第一)隧道 104m JRの保線用道路として使用されている  アスファルトによる舗装  
立入禁止  
2号 玉野(第二)隧道 80mほど? JRの保線用道路として使用されている  アスファルトによる舗装 
レールが残る  立入禁止  
3号 70mほど? 両坑門とも健在 内部は瓦礫が捨てられている
4号 50ほど? 両坑門とも健在 5号方面は猛烈な藪と
橋梁の崩壊(撤去?)のため進行困難
5号 隠山(第一)隧道 両坑門とも健在
春日井側坑門は愛岐道路から見ることができる
5号と6号の間に石積みの護岸がよく残っている
6号 隠山(第二)隧道 333m 愛岐処分場の赤い橋(立入禁止)を越えて左側に多治見側坑門と
橋脚の一部が見れる
両坑門とも健在
7号 諏訪(第一)隧道 607m 愛岐処分場の赤い橋(立入禁止)を越えて右側に春日井側坑門の
ポータル上部が確認できる 坑口は埋められているが、
隙間から内部の様子が確認できる。内部は瓦礫?によって背丈ほど
の高さまで埋められている。
多治見側ポータルはなんとか健在。ロックシェッドが設置されている。
8号 諏訪(第二)隧道 100m
ほど?
両坑門とも健在。多治見側ポータルはコンクリが塗られている。
古虎渓駅側からはアクセス不可(現役線路を跨ぐのは絶対NG!)
9号 消滅(新線工事により解体)
10号 50mほど? 通り抜け可能だがそこに至るまでが困難 というか危険
11号 廿原(第一)隧道 200m
ほど?
10号を抜けた50mほど先 前後は猛烈な薮 
トンネルは健在 11号の先は橋梁の崩壊、がけ崩れあり 
12号 廿原(第二)隧道 70m
ほど?
多治見側はポータル上部のみ月見センター駐車場に残る
春日井側坑口は健在。
13号 多治見側から14号を通り抜け訪問可能
内部は50mほどの地点でコンクリによる閉鎖
春日井側の坑門は消滅
14号 池田町屋隧道 385m バラストが敷かれている 通り抜け可
住人がいます・・・ 春日井側坑門は愛岐道路からハッキリ見えます
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※紹介する画像には、大変危険な場所が多く含まれております。また立入禁止の私有地にも入っています。
筆者は現地を訪問することを決して推奨しません。
また当サイトを閲覧し、探索をしたことによって貴方に重大な被害が生じたとしても、
筆者は責任を負いかねます。訪問は自己責任でお願いします。
また、現役線路内に立ち入る、横切ることは絶対にやめてください。

1号トンネル多治見側
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2号トンネル春日井側
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3号トンネル多治見側
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4号トンネル多治見側
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5号トンネル春日井側
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6号トンネル多治見側
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7号トンネル春日井側
再訪問記
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8号トンネル春日井側
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9号トンネルは消滅

10号トンネル春日井側
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11号トンネル多治見側
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12号トンネル春日井側
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13号トンネル多治見側
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14号トンネル春日井側
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左から現中央本線愛岐トンネル、庄内川(岐阜県に入ると土岐川)、愛岐道路(県道15号)
愛岐トンネルの右側の薮に、3号トンネルが埋もれている


愛岐道路からはいくつかのトンネル跡を見ることができます これは5号トンネル


当時のものと思われる護岸が残っています


多治見ホワイトタウンからの眺望
14号トンネル→13号トンネル間の旧線敷が見えます

参考資料

「中央線鉄道建設概要」(鉄道院名古屋建設事務所、明治44年)
「多治見市史 通史編 下」
「春日井市史」
「高蔵寺町史」
タイトル失念(玉野町の歴史をまとめた本です。これいちばん参考になったのですが・・・)
「鉄道廃線跡を歩くIV」(JTB、トンネルから煙を吐いて出てくるSL等、貴重な写真が掲載されています)
「愛知県の近代化遺産」(愛知県教育委員会)
地図「豊橋」(大日本帝国陸地測量部、大正6年)
ほか
(2006年2月21日公開)

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